うみねこ通信〜Selection

塩崎源一郎氏、逝く(2000年)

 5月25日、塩崎源一郎氏が逝去された。享年88歳。

 戦前に東京で紙芝居を始め、戦後は大阪に移って、紙芝居の絵元(制作・配給する組織)三邑会(さんゆうかい)を興した。

 東の加太こうじ、西の塩崎源一郎…とまで呼ばれた、戦後紙芝居の立役者である。現在では、ただ一人の現役の絵元だった。自宅を改造した「塩崎紙芝居博物館」には、1巻10枚の紙芝居がおよそ3万巻保存されている。

 最後の絵元というだけではなく、塩崎氏は戦後の漫画文化に多大な影響を及ぼした人だ。

 塩崎氏は、紙芝居を「子供に世界を理解させる道具」――すなわちメディアとして捉え、他の絵元に比べて高額な画料を払って、紙芝居作家を育てた。

 その塩崎氏が育てた紙芝居作家の中に、佐倉五郎という人物がいた。彼は、後に酒井七馬(しちま)と名を改め、新人漫画家手塚治(治虫)と出会って「新宝島」を出版する。

 ご存じの方も多いと思うが、「新宝島」は日本初の「シリアスな物語を扱った漫画」である。

 手塚が作画し、酒井が監修を務めた。当時の子供たちに大好評を泊し、「ストーリー漫画」というジャンルが誕生するきっかけとなった作品だ。

 その後、手塚は「ロストワールド・失われた世界」などの名作を次々と世に送り出し、世界に名を馳せる巨匠となったのはご存じのとおりである。

 その陰に、「シリアスな物語を緻密な絵で表現する」ことの可能性を塩崎氏の下で学んだ、佐倉五郎――酒井七馬がいたのである。

 ストーリー漫画は劇画のルーツと思われている方もおられると思うが、実はちょっと違う。

 「新宝島」など一連の出版物で有名になり、東京に出て中央のメジャー雑誌で活躍する手塚の作風は、それに続く多くの漫画家に影響を与えた。

 が、当時大阪で貸本漫画を描いていた若者たちは、さらにリアルな絵で、よりシリアスな物語を表現する手法を考案した。

 子供向けの柔らかい線ではなく、もっと上の年齢層に向けた硬い線を使い、デフォルメを減らして緻密に描き込むことが、彼らの目指すリアリティーだった。

 物語も、メジャー雑誌で取り上げられる「スポーツ、学園、友情もの」ではなく、犯罪物や刑事の生活を描いたものなど、暗くシリアスなものが多かった。

 彼らの根底には「アンチ中央・アンチ手塚」の思想があり、自分達の作風を手塚をベースにした中央の「漫画」に対し「劇画」と命名した。

 創設メンバーの辰巳ヨシヒロが使っていたペンネーム「劇画工房」からその名を頂き、さいとうたかをのTS工房、佐藤まさあき、桜井昌一らの関西漫画家同人が合併して劇画工房というグループが誕生した。

 メンバーの名を見れば分かるように、いずれも、日本劇画界の重鎮だ。彼らの作風の根底にもまた、シリアスな物語をリアルな絵で伝える紙芝居があった。

 辰巳ヨシヒロが起草した劇画工房発足の挨拶には、劇画の特徴は技法よりも対象年齢とストーリー性にあると書かれている。また描き手についても、「漫画家」ではなく「劇画ライター」と表現されている。

 紙芝居は戦前からあった子供向けのメディアだが、それが大ブームを巻き起こしたのは、戦後の十年足らずの一時期である。

 「バイニン」と呼ばれた紙芝居の演じ手たちは、やがて巻き起こる高度成長の波の中で、ビルや道路建設など他の「もっと割のいい仕事」を見つけて廃業していった。

 結局紙芝居は、戦地から復員してきた兵隊達の、当座食いつなぐための手段でしかなかったのだ。

 そんなつかの間のブームが、大阪でストーリー漫画という革命的なジャンルと、手塚治虫という巨匠を産み、さらに劇画の創成という偉大なムーブメントにまで影響を与えたのである。

 「漫画雑誌」と言いながら、実際にはその内容のほとんどは劇画である。劇画は、日本人にとって最も身近で最も馴染み深いメディアだ。

 塩崎氏がいなければ、巨匠手塚も、劇画というジャンルも、そして名作「ゴルゴ13」も、生れなかったかもしれない。

 直接的に語られることは少ないと思うが、現在当り前のように読まれ、消費されている劇画の根底の、さらに奥の奥に、塩崎源一郎氏の紙芝居、子供、作家達に対する愛情と情熱があったことは間違いない。

 謹んで、ご冥福をお祈りする。合掌。

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